約半年ほど前に息子が亡くなり
ずっと止まったような感覚だった
『時間』が、
最近、一気に大きく動き出した
気がしています。
あぁ、人生には流れというか
波があるのだなぁと
しみじみと感じていますね。
まあ、どんな風に動き出したかは
そのうち書く機会もあるかと
思っているのですが、
今日はそんな日々の中で
少し感じたことを書いてみようと
思います。
自分の人生に責任を持ち、
自分で物事を判断出来るように
なってもらえたら嬉しいかな。
自分で選ぶということ
今回一番お伝えしたいのが、
どんな時でも自分の取る態度だけは
自分で選ぶことが出来る、
ということです。
僕や、僕を含めた家族みんな
息子を亡くした後、
人生の時間が止まってしまったような
感覚の中で生きていました。
例えば外食へ行っても、
自分たちだけが世界から
取り残されたような、
もう、過去には戻れないのだな
というような淋しい気持ち
だったんですね。
そんな中で、
僕はあるお話というか
教えを知りました。
それが、
第二次世界大戦中に
ナチスの強制収容所での生活を体験した、
ヴィクトール・E・フランクルの
お話でした。
ブーヘンヴァルトの歌
ナチスが作った強制収容所の一つに
ブーヘンヴァルト収容所というものが
ありました。
ここに収容されている囚人
(囚人と言っても罪を犯した
訳ではない)
が作成し皆と共に心の支えとした歌が、
「ブーヘンヴァルトの歌」
です。
この歌に、
「それでも人生にイエスと言おう」
という歌詞があります。
この「イエス」という歌詞は
英語で言う、
「That’s it」(その通り)
という意味合いになるのだと
思うのですが、
「どれほど理不尽な目に合おうとも
これが私の人生であることを
受け入れよう」
という想いが込められています。
そして、この歌を歌いながら
囚人たちは、
堂々とした態度で
収容所生活を過ごしていたと
いうことです。
フランクルは言います。
どんな状況であろうとも
自分がどのような態度を取るかは
自分で選ぶことが出来ると。
この話を知った時、
僕の心は一気に揺さぶられました。
確かに息子を亡くしたことは
とても辛く悲しいことです。
そんなことは言葉にするまでも
ない訳ですけど、
そんな状況の中でも、
自分がどのような態度を取り
自分の人生を生きるかは、
自分が決めることが出来る
ということです。
僕はそれまでに、
悲しむことと悲しみに囚われて
自分を見失うことは全く別の話だと
気づくことが出来ていましたが、
その上で、
自分が取る態度も状況に関係なく
自分で選ぶことが出来る
というのです。
自分が試されているような
気持ちになりました。
さらにフランクルの考えから
大きな気付きを得ます。
フランクルが伝える3つの「人生の意味」
フランクルは人生を意味あるものに
するために、
3つの方法があると言いました。
その3つが、
- なにかを行うこと、活動したり
創造したりすること - なにかを体験すること
(自然、芸術、人間を愛すること) - 自分の可能性が制約され逃れられない
事実であっても、
その事実に対してどのようにふるまうかを
決め、引き受けること
です。
先ほど話した、
自分がどのような態度を取るかは
自分で決められるという話は、
3つ目の自分の可能性が制約された時
どのようにふるまうかというところに
対応します。
この話を聞いた時に、
自分はどのような態度を取るか
うんぬんの前に、
なにかを創造することも、
自然や芸術を体験することも、
人を愛することも出来ると
感じました。
自分にはまだまだ残されているものが
たくさんあるではないか。
前を向いて進むことが
出来るではないか。
そんな思いが湧いてきたんですね。
正直、そのまま悲しみに暮れて
じっとうずくまることだって
別に出来ますよね。
でも、そこに甘えて
自分の生き方を選ぶことを
放棄することは、
自分にとっても息子にとっても
決して潔いことではないと思う。
そんな思いで日々を生きている今、
これまでの人生の中で
一番自分の人生を生きていると
感じることが出来ています。
いつでも堂々と。
そうやって生きていこうと
思います。