息子から学んだ生き方のヒント

少し前に興味深い動画を見ました。

解剖学者の養老孟子先生が
話していた動画です。

どういった表現だったか
正確なところは
忘れてしまったんですけど、

「人には二つの私がいる」

つまり、一人の人間の中に
二つの人格があるというような
意味合いですね。

これは二重人格とか
そういった意味ではないのですが、

分かりにくいので
養老先生が話していたことを
そのまま紹介します。

昔は脳の病気で右脳か左脳の
どちらかが悪くなった時に、

正常な脳に影響が出ないよう
右脳と左脳の連結を切るような
乱暴な手術が行われていたようです。

養老先生は海外で行われた
その連結を切る手術をした後の、

患者の様子を写したビデオを
ご覧になったそうですが、

そのビデオがなかなか
衝撃的だったようです。

その患者は外出をするために
靴下を履こうとしていたのですが、

「どうしても履くことが出来ない」

と訴えていました。

しかしそれは、

手術後で身体が思うように
動かないという理由ではなく、

右手が履かした靴下を
左手が脱がすということを
繰り返していたそうです。

養老先生曰く、

論理的な思考をつかさどる左脳は、

「出かけないといけない」

と分かっているので
一生懸命に靴下を履こうとするが、

感覚をつかさどる右脳は、

「こんな状態で外に出たくない」

と靴下を脱ごうとしていた
ということです。

(ちなみに左脳はは右半身
右脳はは左半身に影響を与える)

その後も、

やっと靴下を履けた患者が
ドアを開けようとすると、

右手が開けたドアを
左手が閉めてしまい、

なかなか外に出られなかったそうです。

これはつまり、

人間の中には二つの人格の
ようなものがあり、

普段はそのバランスを取りながら
生活をしているという
ことなんでしょう。

僕はこの動画を見た時に、

その二つの人格のようなものが
一人の人間の中に共存している
という感覚が、

すぐに腑に落ちたんですね。

なぜかというと
理由は単純で、

「確かに二つあるよな」

と思ったからです。

僕がそれを実感したのは
実は息子を亡くした時です。

息子は夜中に家で体調が急変し
そのまま亡くなったのですが、

僕はその時の光景がイメージとして
自分にびっしりとこびり付き、

目をつむるたびにフラッシュバックし
苦しい思いをしていました。

なにせ寝るどころか、

目をつむることさえ出来ない。

あまりに苦しかったので
葬儀のために駆けつけてくれた兄に
相談をしました。

すると兄は、

「大事な人の死に目に会える機会は
実はほとんどないんだよ」

と言いました。

僕はその言葉にハッとして、

確かに最期の最期まで
家族と家で過ごすことが出来、

(息子は家が大好きだった)

急変してそのままではありましたが
それゆえ長時間苦しむこともなく、

あぁ、有り難いことだったのかもしれない
と少し思い直すことが出来ました。

それ以来、

息子の最期のイメージが
浮かんできた時は、

心に向かって

「ありがとう」

というようにしました。

すると不思議なもので、

それまでは自分にビッタリと
こびり付いていたイメージと、

少し距離を置くことが
出来るようになったんですね。

この時に、

確かに純粋な悲しみが
なくなることはないけれども、

悲しむことと悲しみに囚われて
自分を見失うことは
全く別の問題なのだ、

ということに気付きました。

そして、

イメージをする自分と、

その自分を一歩後ろから
眺める自分という、

一人の中に二人の人がいるような
感覚をこの時初めて
強く実感したのです。

でも実は、

この自分の中にある
二つの自分という感覚を、

(何とも言い表しにくいな)

言語化してくれていた本や人って
結構いるんですよね。

僕が知っているだけで言うと
例えば、

認知行動療法の一種に、

アクセプタンス&
コミットメントセラピー
(ACT)

というものがあります。

このACTでは、

『思考する自己』
『観察する自己』

というものが出てくるのですが、

僕の場合で言うと、

息子のイメージをしているのが
『思考する自己』で、

そのイメージと距離を取り
一歩後ろから見ているのが
『観察する自己』といった感じです。

他にも、

精神科医の泉谷閑示先生は、

『頭』と『心=身体』

という分け方をします。

瞑想の中にも
自分を上から見るようにする
という方法があったかと思います。

ごちゃごちゃしてきたので
少し表にしてみようかな。

養老孟子先生左脳右脳
ACT思考する自己観察する自己
泉谷閑示先生心=身体
思考感覚

一人ちょっと素人が
混ざってますが。笑

ここまで長々と書いてきて
結局何が言いたいのかというと、

僕はこれから、

『感覚』

に身を開いて生きていこうと
思ってるんですね。

フラットでより自然に。

より本質的に生きたい。

今の世の中は、

ほとんど『頭』側が
支配しているように
感じられます。

計算的で打算的で
主張的で排他的。

僕が生きる意味は
そこではないなという
確信だけはあるんですね。

息子が与えてくれたヒント。

さて、どんな生き方に
なるでしょうね。

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